妹へ
元気ですか?
この前、仕事で疲れている時は、エクササイズや瞑想をするといいという話をしましたが、今日は人生に迷ったり、方向性を変えたいけれど自分ではどうすればいいかわからない時に、先人の知恵に頼ってみることについて話します。
先人との出会い-老子-
昔、ハンガリーにいったとき、地元の新聞記者と知り合いになりました。
いつかは本を書こう思っていた当時、新聞記者であるその人にも「いつかは本を出版する計画はある?」と聞いてみました。すると、意外な言葉がかえってきました。
「ずっと本を書きたいと思ってたんだけど、老子の本を手に取った時に、もう自分が書きたいことは全て書かれてるってことに気が付いて本を書くのは諦めたんだ」
この時、英語名の『ラオツー』にピンとこなかったのですが、漢字にすると「老子」。
そうです、あの漢文の授業に出てくる老子です。
この人の一言で、先人に知恵を借りるということについて考えるようになりました。
毎年、数えきれない本が書かれている中で、一度の人生をまだ半分も生きていない人が生き方について本を書いたところで何を語れるだろうかと思ったのです。
老子は紀元前4世紀の人間です。紀元前から哲学者たちは生き方や自己啓発について説いてきて、師とする人から学び取って、弟子を何人ももち、何世代もかけて、知恵を後世に残しています。
自己啓発本や生き方に関する本は溢れるほどあり、毎年その数は増していき、そして忘れられていきます。
話されている内容は、どれも似たり寄ったりで、2000年以上前に話されていたことが、形は違うものの繰り返されているだけです。人間の本質とは何か、どうやったらよく生きられるか、幸せとはなんだろう、どうすれば成功できるのか・・・数千年も色々な人が意見を言ってきたけれど、これといった答えがまだ出ていません。
これはなぜかというと、答えがないというよりは、みんな一から探そうとして、短い人生の中で探せないまま終わってしまうからではないかなと思います。だから先人から学び取って、それを改善して、ということを絶えず繰り返していたら、もっと前進していたかもしれません。
例えば科学。今では新発見をするのは難しくなっていると言われています。昔は一人で複数の元素さえ発見できたものですが、今では今までわかっていることを知った上で、そして初めてまだ発見されていない何かを発見することができます。しかし今までわかっていることを知るにも、その情報は膨大すぎて、全てを学ぶことはできず、小さなテーマを選んでそれを掘り進めて、上手くいけば生きているうちに新しい発見をすることができます。昔のように数学者兼哲学者兼政治家で、いろんなものを発見して自分の名前をつけることなんて無理なのです。
だから、大学を卒業してあまり挫折もなく起業した若者や何十人かの相談にのってきたカウンセラーが、老子や先人の言葉を知らずに「幸せになる方法」「成功する方法」「正しい生き方」を本にして、人生相談人・人生コーチングをやっているのはどうなのかなと思ってしまいます。
先人の言葉、古人の言葉
話はそれましたが、人生にちょっと迷った時に、当時のハンガリーの新聞記者の話を思い出して、老子の言葉を読むことにしました。老子の言葉は結局は数える程しか残っておらず、本1冊ぶんです。日本語、英語、漢文で読もうとしましたが、挫折してしまいました。でも読んでみると、確かにこの人はすごい人だなと感じます。第六感ではないけれど、何か見えないものが見えていたのではないかなとも思えます。老師についてはまた次の時に話します。
この挫折を通して、どうして科学のようにいかないかがちょっとわかりました。
夏目漱石でさえ読むのが大変なのに、2400年前に現在一般の中国人さえ読めない中国語で書かれた文章を、10年以上も前にちょっと習った古文の知識で日本人が読もうとしても読めるはずがないのです。
仏教も先人の知恵
そして思ったのです、どうやったら昔の偉人の言葉から恩恵を受けることができるのか。
そしてここで2400年も前から現在まで残っているものがまだあります。それは仏教です。仏教が誕生したのは紀元前450年だと言われています。
人生に迷った時に宗教に頼るのはこわいし、やめた方がいいと思います。
でも、仏教はほとんどそっくりそのまま原型が残っている老子とは違い、いろんな人達がアップデートしてきました。そのため、薬師寺のお坊さんの法話が、現代語でわかりやすく修学旅行生でも理解できるようになっています。
もちろん、インドで始まってから中国経由で日本に来るまでの間に、仏教は変わってしまったけれど、本質は同じです。仏教は「苦を逃れること」に焦点が置かれています。つまりはどうすれば幸せになれるかに重点を置いた哲学です。キリスト教のように「すべては神の意思によって起こる」や「よく生きていれば永遠に天国で暮らすことができる」というのとは違い、仏教は因果応報なので、何かが原因で苦が起きているからそれを解決しようというものです。何かを信じたり、お金を払ったり、どこかの集まりに参加したから幸せになれるというのとは違います。だから仏教は宗教というよりも、人生の指針として取り入れられるものだと思います。
話がまた長くなってしまいましたが、仏教を宗教としてとらえずに、何年も語り継がれてきた知恵で、これを現代語訳できるのがお坊さんだと考えます。葬式などの行事ごとも、魂をあの世に送ったりという宗教的な儀式を行っているというよりも、死というとても普通の人には理解できないものを、哲学の教えをわかりやすく伝えてくれる存在だと考えることもできます。ヨーロッパでは仏教を宗教としてではなく、ライフスタイルや自己啓発法として軽く取り入れているひとがたくさんいます。日本でも近年、若い人が宿坊体験するということが一般化してきています。タイのお寺に1週間滞在していたとき、年に一回は連休を使って瞑想するために寺に来るんだというタイ人もいました。こういう付き合い方をしている人を見ていると、仏教が身近に感じられるものです。
話が右往左往してしまいましたが、仏教でも、セネカでも老子でも、人生でちょっと迷ったら、原点に戻って先人に頼ってみるのはいいことだと思います。
最近やっと読みました。2日でサクッと読めます。仏教用語が日常的に使っている言葉になっているんだへぇーと思えるところと、こういう生き方をしてみようと参考になるところもあって、おすすめです。