妹へ
元気ですか?
お姉ちゃんはコロナからすっかり回復しました。コロナになったせいでしばらく書いていなかったけれど、これからまたたまにここに書いていこうと思います。
前回の年齢の話ですが、コロナにかかった辺りからまた色々な人に出会って、「年齢の違いのせいで相手にされなくなった」という考えを改めました。今回は、人に親切にすることについて話したいと思います。
先輩になる
ポルトガルに着いてから最初に仲良くなった、26歳のブラジル人の女の子がいます。
お金があまりない学生だということで、この子から始まり、若い子たちと過ごす機会が多かったこともあり、今回の旅では若い人たちにとにかく奢ってあげることをたくさんしました。
今までは、東京で二人分の生活費を払っていたことや、二度の不当解雇が重なったこともあり、経済的にそれほど余裕はなかったけれど、最近は収入も安定して、心に余裕ができてきたということもあるのかもしれません。さらに、ポルトガルは、西ヨーロッパ内なのに、月々の平均手取りが10万円ほどということもあり、現地の若者にはやっぱりちょっとは出してあげたほうがいいかなとも思ったのです。
その子とは何度も会って、毎回「お酒代だけは全部出すから」といっておごっていたけれど、学生だから飲む量が意外に多くてちょっと途中はどれだけ飲むのかなと心配になったこともあるほど。
あっちも心配になったようで、本当に好きなだけ頼んでいいのかと聞いてきた時、こんな言葉が出てきました。「人生三十何年、いろんな男たちにおごってもらったんだから、これはそのカルマ。ペイフォワードだよ。」日本語だったら「金は天下の回りもの」なんていうしっくりくる言葉があるからそう言っていたかもしれないけれど、どれだけ今まで奢ってもらったかをあらためて考えたら、人生そろそろここからこの先は奢る側に居続けて、今までの親切を返していかないといけないのかな、という気がしてきたのです。
見かえりを求めずに他人に親切にすること
ギブ&テイクとはいうけれど、恩返しというのは、必ずしも親切にしてくれた相手にするものではないのだなと大人になってから気づきます。前までは親切にしてもらったらプレゼントをしたりしてお返しをしていたけれど、今は、若い人やこれから会う人に同じような親切をはたらいていく方がいいのかなと思っています。
お姉ちゃんが22歳くらいのころ、大学の女友達二人とオシャレをして、ちょっと高いバーにカクテルを飲みに行ったことがあります。なかなかない経験に楽しくワイワイして、高いから一杯しか頼めないカクテルを飲んでいると、ウェイトレスが高そうなカクテルを2杯テーブルに持ってきて「こちらは匿名のファンからです」といってきました。
これこそ滅多にない経験にまたキャピキャピして、周りを見回しながら誰だろうと言いながらあの人が怪しいよ、あの人はお金持ちそうだからあの人かも、とまた盛り上がったのを覚えています。その人は、見返りを求めずに、楽しそうにしている若い子二人に奢ってあげたかっただけなのかもしれません。
だからポルトガルでいろんな国から来ているテーブルの席で、何も注文しないでいる若い子には男女関わらず「ビール飲む?奢るよ?」といってあげると、誰も断りませんでした。やっぱりお酒が飲みたくないわけじゃなくて、お金を使いたくなくて何も頼んでなかったようです。
東京にいた時、彼氏がいたのに男の人達と飲みに行くと「女子は2000円でいいよ」といってくれて少ないお金でもそれなりの食事もできたし、今までそうやって少しずつ受け取っていた親切を、こういう形で返していくのが大人になったということなのかなと思いました。
親切にすることの勇気
親切もお金も、あげようとすれば断られるかもという不安がつきものです。親切な行動もそうで、電車で席を譲ったり、車いすの人に「押しましょうか」と声を掛けたり、人に親切にするのはちょっとした勇気のいる行動です。
断る理由は人それぞれ。恩着せがましい、見返りを求められるのが嫌だからというのもあれば、年だから・若くてお金がないから・障害者だから特別扱いされるのは嫌だという気持ちもあれば、ただ単に、気持ちは嬉しいけれど必要ではないからと、断る本心はわかりません。
タダのビールを誰が断るかというかもしれませんが、単純に若い子にも楽しんでほしいからというこちらの親切心も、「10歳以上の年上の女の人におごられる」というあまりない展開に不信感や疑心を持つのも何となくわかります。
断られたからといって「人が親切にしようとしてるのに、損した気分だ」となるのであれば、親切にしない方がいいでしょう。心に余裕があって親切にするのが親切だと思います。お金にも余裕があるから気持ちよくおごるのであって、少々身を削ってお金を出すようだと、見かえりがないとがっかりしているようなら親切心ではないと思います。
因果応報?
このおごる精神で、一緒に住んでいたドイツ人とイタリア人の男の子たちに何度か料理を作ってあげました。ドイツ人の男の子は、実は20歳で初めて家を離れて海外で暮らし始めたということもあって、「手料理なんてお母さんが作ってくれて以来で嬉しい」と素直に喜んでくれてこっちも嬉しくなりました。
イタリア人の子はインターンシップをしている学生で、毎日お弁当を作っているところや、バスを使わずに40分歩いて通勤しているところを見ると、お金が本当にないのだなということがわかったので、せっかくポルトガルでポルトガルレストランに行ってないのは可哀そうと、一生懸命ポルトガル料理を作って二人に食べさせてあげたこともあります。
イタリア人の子は、3回目に料理を作った時はちょっと怪しんで、何か裏があるのではないかと思ったようですが、いつだったか彼氏の話をしたら、そこから接し方がそれほど冷たくなくなったので、10歳以上も年上の女の人が自分に気があるから手料理を作ってくるのかと思われていたのかもしれません。
そして、ドイツ人の子と遊びにいった二日後に二人同時にコロナにかかり、お互い異国の地で情報交換し支え合い、そしてイタリア人の子は隔離中で外出できないお姉ちゃんたちのために何回かスーパーに買い出しに行ってくれて、お世話をしてくれました。
症状が軽く、同じ状況にいながらも心配して気にかけてくれたドイツ人と、このイタリア人の子のおかげで、海外でコロナで大変の状況に置かれながらも精神的には救われていました。
お金がなくて可愛そうだから料理を作ってあげたんだと話すと「日本にきたら家に泊っていいって言ってあげなね」といっていたお母さんにこの話をすると、「やっぱり人に親切にしておいてよかったね」と言ってくれました。本当にそうだなと思いました。
親切を働くことは人のお手本になる
親切な人を思い浮かべたときに、お母さんと今の彼氏が真っ先に浮かびます。うちのお母さんほど親切な人はいないなと思うのです。もとから優しいお母さんだけれど、お父さんが亡くなってからはボランティアをしようとしたり、人の役にたとうとしたり、自分の親ながら、本当に親切な人だなとつくづく思います。もちろん、親せきを含む周りからは親切心を裏切られるようなこともあり、つい最近「あまり親切にしすぎるのはよくないなと思った」といっていたけれど、人に親切に接している姿はお手本になると思います。
そして今まで先輩・後輩ではないけれどおごってくれた人達のおかげで、お姉ちゃんもこうやって少し大人になって当たり前のようにおごるようになりました。金は天下の回りもので、お金も親切もいくら使っても巡り巡って戻ってきて、最後はもしかしたらプラマイゼロで失うものはないのかもしれません。
いつもプラス
でも、なぜか、「分け合えばあまる、奪いあえば足らず」というようなことをいっていた相田みつをさんではないですが、人にあげればあげるほど、多くが返ってくるので、親切はやってもやっても最後にはプラマイゼロではなくてプラスになるのではないかと思わずにはいられません。
小さな例で言えば今の彼氏との関係で、お互い見返りを求めず、料理を作ったり奢ったりしている関係ですが、時々イライラして「料理もしてるし、掃除もしてるのに、家のことなにもしてない!」というようなことを言うと「空港に迎えに行ったり、アパートの下見や契約をしたりしてるのはどうしてカウントされないの!」というどれだけ自分がやってあげている合戦になると、今までは親切心でやっていたことが、親切の売りつけだったような感じになってしまいます。お互いに貯金箱に好きな時に好きな分を入れていたのが、今度は中身の取り合いのようになっているようで、どれだけ不公平か、自分は与えるほうで受け取りが少ないということに注目していると、ぎすぎすしてしまいます。
だから大きなこころで、気持ちよく親切心を実行に移していけたら、大人だなと思います。
お姉ちゃんより
